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宗竺遺書は現代でも通じる商売訓

三井の越後屋は革新的な呉服店だけではなく、公金両替商にも乗り出します。江戸と大阪間の為替業務です。当時、江戸と大阪ではそれぞれ金貨中心、銀貨中心と別れており、今日の西陣で仕入る必要があり、金貨と銀貨の両替コストやそれぞれの為替リスクの問題がありました。また、江戸幕府も上納金の現金輸送に悩んでいました。つまり大阪で集めた年貢米を銀貨に変え、それを江戸まで数日かけて現金輸送していたのです。

そこで三井高利は幕府の大阪御用金蔵の公金を三井両替店が銀貨で受け取り、2~5か月後に江戸城に金貨で納める。という「公金為替」の仕組みを作りました。三井両替店は公金からの収入は受け取らず、数か月間無利子で資金繰りなどに使えたり、大阪で受け取った偽果を越後屋の京都での支払いに使い、江戸城への納金は江戸での売り上げから行うことで、低コストでの仕入れを実現させました。ここで大量の現金を東西に動かすコストもリスクもない仕組みです。これがいわゆる今の三井住友銀行の最初だったわけですね。

当然、三井家は豪商となるわけですが、事業も呉服屋と両替商と複数の事業があり、加えて江戸や京都、大阪にそれぞれ分かれています。事業や地域が分かれる多様な組織をどのように統括するかが悩みの種でした。三井高利は子孫に分割して相続することはなく、相当分を割り付けておくと遺言を残しただけでした。長子の高平が三井の全事業の統括機関である「大本方」を設置、三井家の全ての資本や大本方で一括管理し、各店舗へ資本金を出資、管理しました。各店舗では半期ごとに利益の一定額を大本方に上納し、三井一族への報酬は大本方から支払われました。これは今でいうところの持株会社です。

また、三井家の子孫、高平を中心として、高利の遺訓を元に家の憲法(家憲)を制定します。これを「宗竺遺書(そうちくいしょ)」と呼んでいます。いくつかあげると、次の通りです。

・一族の子弟には丁稚奉公の仕事から体験させ業務に精通させよ。
・本店は全店の会計を掌握せよ。
・賢明、有能なものは昇進させ、新進の人物を採用せよ。
・商売は見切りが大事、ダメならすぐ損切りせよ。
・大名貸しはするな、しても少額とし回収は期待するな。

今の経営にも通じるような素晴らしいことがたくさん書いてあります。

三井高利の考え出したビジネスモデルである現金掛け値なしは単なる安売モデルではありません。従来の呉服屋のビジネスモデルを根底から覆したところで、その安値を維持し競合にはなかなか真似のできないものとなったのです。

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